Kodai_Note

耳を澄ますように古代を感じる試み。

瓢箪山稲荷神社とアオバズク

ひさしぶりに、東大阪市にある瓢箪山稲荷神社に足を運んだ。北隣にある大東市の寺川に暮らす友人を尋ねた帰りのこと。寺川から瓢箪山駅行きのバスに乗り込み、近鉄電車に乗る前に、瓢箪山稲荷神社に立ち寄った。

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瓢箪山稲荷神社の参道。写真は別の日に撮ったもの。

瓢箪山稲荷神社は先の寺川から6キロ南、奈良県大阪府の県境に並ぶ生駒山脈の大阪側の麓にある小さな神社だ。じつは私はこの神社の近くで生まれ育った。神社から1キロほど歩いた場所に家があった。神社は駅前にあったので、立ち寄るこちも多く、夏祭には友達と境内に駆けつけ夜店に心を躍らせた。とても馴染みの深い神社だった。

 

瓢箪山という地名から、どこかに瓢箪山という山があると思われがちだが、目立った山があるわけではない。神社本殿の背後にある小丘が古墳になっていて、それがひょうたん型をしていることから、瓢箪山という名の由来になったという。また、この神社には「辻占」という面白い占いが行われていた。私はやってもらったことはないが、神社の前を通る人の性別・服装・持物、同行の人の有無や、向かった方角などから吉凶を判断するという。wikiで調べると、瓢箪山稲荷神社大坂城築城にあたった秀吉が、 1584年大坂城の南東、つまり巽の方、三里の地に鎮護神として建立したことがわかった。

 

昨今、何度か瓢箪山駅には立ち寄ったのだが、神社まで足を伸ばすことはなかった。その日は少し懐かしさも募り、駅から境内へと足を伸ばしてみた。ちょうど、アーケードが切れるあたりを東に折れると参道となる。すっかり日が暮れて、名残はなかなか見当たらない。ふと左手をみやるとメイプルという喫茶店があった。もう閉店で明かりも落ちていた。

先に進むと人気のない境内が見えてくる。それは、子どもの頃に夏祭りで賑わう瓢箪山稲荷神社や友達の家に行くときに通りすがりに見た瓢箪山稲荷神社でもない、私の知らない瓢箪山稲荷神社の姿だった。異世界の空間であり、境内を駆け回ったり、通りすがる過去の自分達の姿が見えるようだった。

この日は茅の輪くぐりの輪が設えてあった。神社であるから、そうした儀礼が行われていることは当然だが、神社の祭神や儀礼に興味を持ち始めたのは大人になってから。子ども時代の自分たちにとって、神社は学校や駅、商店街と同じランドマークの一つに過ぎなかったので、寺社仏閣に興味を寄せてから眺める瓢箪山稲荷神社の茅の輪くぐりの設えはとても新鮮に感じられた。

茅の輪を通り抜け神殿の階段を上り、賽銭を投げた。それから、子どもの頃のような悪戯気分で境内の裏を回り、末社や小丘の周囲を歩きまわった。ふと、街頭に照らされた境内に目をやると、じっと佇む猫がいた。猫は耳を澄ましているようで静かだ。遠くの雑踏の音と虫の音に加えて、何かの鳴き声が聞こえている。
ほーほーという鳥の、梟のような鳴き声だ。境内の薄明かりのなかで、猫はじっとその声に耳を傾けている。

梟の声は神の使いのようでもあり、梟の声に耳をすます猫の姿は自分の投影のようにも思えた。白っぽいがブチのようにもみえる日本猫。微動だにせずじっとそこにいた。カメラには手をのばさず、息をひそめていたが、少し移動しようとすると気配を察した猫はすっと姿を消した。

神がかった風景だった。神の意志は具体的な物理に影響せず、偶然にその意志を表すという。占いの本質もそこにある。私が体験した梟の声に耳を傾ける猫の姿も神の意志の一つだったかもしれない。

調べてみると、梟ではなくどうやらアオバズクのようだ。瓢箪山稲荷神社の南、六万寺町にある梶無神社にも生息しているとのこと。

Kodai-noteは古代の音と古代ノートをかけたネーミングだが、こうした瞬間、風景に出会うためのブログだと思っている。その瞬間、風景は時を経てずっと続いている。どれだけ、捉えられるかわからないが、追いかけていこうと思う。

 

現在の淀川は生まれて100年。大阪市内で暴れ回った旧淀川の流れ。

甚大な被害を及ぼした7月上旬、西日本豪雨。この記録的な大雨によって200人以上の方が亡くなり、863万人以上の人々に避難勧告や指示がだされた。

あらためて、被害に遭われ亡くなった皆様へお悔やみを、被害に遭われた皆様にもお見舞い申し上げたい。

 

私が暮らす大阪市内は、幸い、直接的な甚大な被害はなかったものの、近隣の交通網は地下鉄や私鉄の一部を除き麻痺状態となった。特にJRはローカル線が山間にも延びていることから、影響は大きく、6月の大阪北部地震の際と同様、私たちの生活に大きな影響を及ぼした。

 

自然の脅威を、いまさらながら目の当たりにしたわけだが、それでも、大阪市内に直接的な被害が及ばなかったのは、淀川の総貯水容量の大きさによるところが大きい。

大阪の人々の多くは、潤いを与え、大雨に耐えうる能力をもつ淀川を古来流れていた自然の河川と思っているかもしれないが、かつての淀川は現在とは別の流れを持っていたのだ。現在の淀川は、流れはじめてまだ100年ほどの新しい河川なのだ。

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かつての淀川は都島付近にある毛馬水門から南へ流れ、なんと大川、堂島川、安治川に合流し、蛇行しながら大阪港に流れていた。それゆえ、豪雨に見舞われると淀川の流れは大阪の中心地を暴れ回りながら流れていったという。

 

なかでも、被害が甚大だったのが1885年の大洪水だった。淀川は洪水によって堤防が次々と決壊。約27万人が被災、八百八橋とうたわれた大阪の橋が流失し、市内の交通のほぼ全てが寸断。

近代化が進むなかで、早々の洪水対策が求められたが、日清戦争の勃発、さら多額の費用が必要であることから改修工事は難航。淀川改良工事が行われたのは洪水から10年後だった。

 

まず、川のルートを都心の北側に移動させ、そこに新しい放水路を造ることだった。こうして守口から大阪湾まで、ダイレクトに流れる約16kmの放水路を検討。さらに、川幅を大きく拡げ、大量の水が直線的に素早く海に流れるよう、大規模な工事が行われた。

 

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国土交通省のサイト100年前の大洪水と新しい川の誕生から。

 

こうして1909年に完成したが、現在の淀川だ。大阪市内が洪水による被害が起こりにくくなったのはこの工事の恩恵によるもの。悠久の流れを感じさせる淀川だが、つい100年前までは、大阪市内も度々水害に見舞われ、多くの人々が命を落としていたのだ。

 

大阪の人々は、台風が来ても逸れる、豪雨の際にも淀川が守ってくれる、災害に強い地域だという印象を持っているだろう。しかし、6月18日の大阪北部地震では、安全なはずの小学校で壁崩壊、9歳児が壁の下敷きになり亡くなった。

思いもよらぬ場所に落とし穴がある。

大阪の安全神話も、じつは豪雨や洪水などの災害による犠牲と、災害と戦った治水の歴史を通じて得られたもの。

当たり前と感じていると、どこかでしっぺ返しを食らうかもしれない。

奈良のお土産、[柿の葉寿司]。材料の鯖はどうやって仕入れた?

柿の葉寿司といえば、近鉄沿線のコンビニ、あるいは奈良県内を車で走ると売られているのが目にとまる、奈良の風土料理だ。観光客にとってのお土産ものであり、同時に、奈良の人たちの生活に密着した日常食でもある。

そもそも、柿の葉寿司は奈良県吉野郡、そして五條市方面のお土産ものとして江戸時代の中頃に生まれたもの。酢にひたしたサバやサケの切り身を一口サイズの酢飯のうえにのせ、柿の葉で包んで押しをかけた作った寿司だ。

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柿の葉の柿は全国有数の産地である西吉野から五條にかけてとられたもの。しかし、鯖や鮭はどのやって仕入れたのか?奈良県には海に面した地域はなく、これらを穫ることはできないはずだ。

じつは、柿の葉寿司の要となる鯖を届けたのは紀州藩(和歌山)の漁師たちだった。当時、重税に苦しんでいた彼らが海産物を買ってくれる客として思いついたのが、紀州から比較的近く、吉野方面に住む裕福な人達だったのだ。そこで、猟師たちは熊野灘で捕れたサバを塩でしめて売りにいくことにしたのだ。

物流や冷蔵設備のない江戸時代、紀州から猟師が運んだ塩サバは山里に暮らす吉野の人々に大好評だった。さらに、猟師たちのアイデアか、あるいは吉野の人々が思いついたのか、この塩サバを五条、西吉野で大きく育った防腐効果がある柿の若葉で包んでできたのが柿の葉寿司だったのだ。

 

当初の柿の葉寿司は、鮒寿司のように、塩サバをごはんを桶に入れて漬け込み、発酵させて酸味をもたせたものだった。食酢ができてから、現代の押し寿司のスタイルになったという。

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柿の葉寿司は、柿の若葉が育つ夏の頃から、柿の葉が赤く色づく晩秋にかけ、夏祭りや秋祭など特別な日にごちそうとして食べるため各家庭で作られたという。さらに多くの人々が食するきっかけがった。奈良の南部、大峰山に参拝にやってくる人々だ。

保存が利いて携帯性がよいということで、街道を行く旅人に茶屋で売られるようになり、美味しさと手軽さが広がり、広く知られるようになったという。 

柿の葉すし (鯖・鮭) 15個入

柿の葉すし (鯖・鮭) 15個入