Kodai_Note

耳を澄ますように古代を感じる試み。

3月14日、東大寺二月堂のお水取り 「十一面悔過(じゅういちめんけか)」

奈良の近くに生まれ住み、何度も奈良は訪れていたものの、お水取りを見に行ったのは初めてだった。白洲正子の「十一面観音巡礼」のなかで二月堂付近のトピックスに触れ、お水取りを始めた実忠という僧に興味を持ったことをきっかけに、ようやく足を運んだ。

 

修二会は3月1日より2週間にわたって行われていたが私が訪れたのは最終日の3月14日。「お水取りは深夜に行われる秘儀」というイメージがあったのだが、それは3月12日深夜(13日の午前1時半頃)から行われる「お水取り」で、風物詩としてメディアなどでも紹介される目当ての「お松明」の行事は1日から14日まで毎日行われていたのだ。たまたま、時間が合ったので難波から近鉄電車に乗り込み、東大寺へ。

19時半から始まると東大寺二月堂の公式サイトにあったのでギリギリに駆けつけると、境内はぎっしりと人で埋め尽くされ、割って入るのも憚られるので程よく空いている空間があったのでそこに陣取った。

「お松明」はイベント化され、アナウンスで注意事項などが報じられ、お堂の中では行われていたのかもしれないが読経の響きもなく、少し醒めた部分もあった。しかし、北側の階段から炎が登っていく様子が見えると野生の本能が呼び覚まされるのかその行方に釘付けになった。この行法は達陀(だったん)と呼ばれ、長さ3メートルもの松明を抱えて修行僧が飛び跳ね、火炎をあげながら二月堂の舞台を歩き、南の端で松明を投げ倒す。すると、懸造の舞台から火の粉が舞い参拝者達の感嘆の声があがる。

 

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この日の松明は十本。長い時間をかけて行われるものと思っていたが、30分くらいのあっという間の出来事だった。

来場者の中には懸造の柱の真下で火の粉を浴びている人たちも居たようで一際大きな声が上がっていた。柳田國男は神仏の祭事について、当事者より観客数の多いことを危惧していたが、今年2018年には1267回を数える。二月堂の修二会が当事者だけのものであった時代はいつまでだったのだろうか。あるいは、かつても町衆など観客としての参加者も多かったのだろうか。

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そういう自分も数珠を用意したり、読経するわけではない。立場はあくまでも観客の域である。それでも、寺社の祭事で、できるだけ当事者の位置に近づき、時間の流れを遡りながら、本質に近づきたいと思うのである。それは、内陣の特別席に通してもらうわけでもなく、離れた場所から祭事を眺め、心のなかで、古来の足跡を辿っていくことだ。

そうしたことを、このブログでは追っていきたい。

 

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