Kodai_Note

耳を澄ますように古代を感じる試み。

現在の淀川は生まれて100年。大阪市内で暴れ回った旧淀川の流れ。

甚大な被害を及ぼした7月上旬、西日本豪雨。この記録的な大雨によって200人以上の方が亡くなり、863万人以上の人々に避難勧告や指示がだされた。

あらためて、被害に遭われ亡くなった皆様へお悔やみを、被害に遭われた皆様にもお見舞い申し上げたい。

 

私が暮らす大阪市内は、幸い、直接的な甚大な被害はなかったものの、近隣の交通網は地下鉄や私鉄の一部を除き麻痺状態となった。特にJRはローカル線が山間にも延びていることから、影響は大きく、6月の大阪北部地震の際と同様、私たちの生活に大きな影響を及ぼした。

 

自然の脅威を、いまさらながら目の当たりにしたわけだが、それでも、大阪市内に直接的な被害が及ばなかったのは、淀川の総貯水容量の大きさによるところが大きい。

大阪の人々の多くは、潤いを与え、大雨に耐えうる能力をもつ淀川を古来流れていた自然の河川と思っているかもしれないが、かつての淀川は現在とは別の流れを持っていたのだ。現在の淀川は、流れはじめてまだ100年ほどの新しい河川なのだ。

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かつての淀川は都島付近にある毛馬水門から南へ流れ、なんと大川、堂島川、安治川に合流し、蛇行しながら大阪港に流れていた。それゆえ、豪雨に見舞われると淀川の流れは大阪の中心地を暴れ回りながら流れていったという。

 

なかでも、被害が甚大だったのが1885年の大洪水だった。淀川は洪水によって堤防が次々と決壊。約27万人が被災、八百八橋とうたわれた大阪の橋が流失し、市内の交通のほぼ全てが寸断。

近代化が進むなかで、早々の洪水対策が求められたが、日清戦争の勃発、さら多額の費用が必要であることから改修工事は難航。淀川改良工事が行われたのは洪水から10年後だった。

 

まず、川のルートを都心の北側に移動させ、そこに新しい放水路を造ることだった。こうして守口から大阪湾まで、ダイレクトに流れる約16kmの放水路を検討。さらに、川幅を大きく拡げ、大量の水が直線的に素早く海に流れるよう、大規模な工事が行われた。

 

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国土交通省のサイト100年前の大洪水と新しい川の誕生から。

 

こうして1909年に完成したが、現在の淀川だ。大阪市内が洪水による被害が起こりにくくなったのはこの工事の恩恵によるもの。悠久の流れを感じさせる淀川だが、つい100年前までは、大阪市内も度々水害に見舞われ、多くの人々が命を落としていたのだ。

 

大阪の人々は、台風が来ても逸れる、豪雨の際にも淀川が守ってくれる、災害に強い地域だという印象を持っているだろう。しかし、6月18日の大阪北部地震では、安全なはずの小学校で壁崩壊、9歳児が壁の下敷きになり亡くなった。

思いもよらぬ場所に落とし穴がある。

大阪の安全神話も、じつは豪雨や洪水などの災害による犠牲と、災害と戦った治水の歴史を通じて得られたもの。

当たり前と感じていると、どこかでしっぺ返しを食らうかもしれない。