母から聞いた、大阪空襲 (1945年3月13日)
終戦記念日(8月15日)が近づいてきたので、身近な戦争経験者、母に当時のことをLINEで聞き出し、書きとめた。
今年、父は83歳、母は80歳。有り難いことに両親とも健在で、東大阪市中石切で静かに暮らしている。大阪に大規模な空襲が行われたのは、今から73年前、1945年3月13日。
大阪空襲 (1945年3月13日)
大阪市を中心とする地域への戦略爆撃ないし無差別爆撃。13日の深夜から翌日未明にかけて行われ、一般市民 10,000人以上が死亡したと言われている。アメリカ軍の照準点は、北区扇町、西区阿波座、港区市岡元町、浪速区塩草で、都心部を取り囲む住宅密集地を標的にしており、夜間低空爆撃として約2,000mの低空からの一般家屋をねらった夜間爆撃だった。山を挟んだ奈良県や亀岡盆地側では、火炎が山の向こうに夕焼けのように見えたという。大阪大空襲 - Wikipedia より。
当時、母は8歳、集英小学校という現在の北浜駅から東へ3分ほど歩いた場所に校舎がある小学校に通う1年生だった。
母の両親、つまり私の祖父母は、大阪市内、本町界隈で「栗山」という食堂を営み、店舗の上で四姉妹とともに、何不自由なく楽しく暮らしていた。
しかし、戦況が厳しくなると、母の父、私の祖父は戦地スマトラに出征した。
祖母は食堂で、夫を兵隊にとられるなか、苦労しながら4人の娘を育てていた。そんな祖母が爆撃にあったのは33歳のとき。B29の焼夷弾が上記の通り、祖母や母が住む町に降り注がれた。
焼夷弾はゼリー状の油で建造物を焼き尽くす恐ろしい兵器だ。暮らしの土台となっていた、食堂と家をみるみるうちに焼きつくしてしまった。
祖母は近所の火消しの手伝いにでかけねばならず、姉2人は疎開していた。残された母と3歳の妹が居た場所にも火が回ってきたのか、2人で中之島に向かったという。
「中之島なら、広い空間のあるから安全だろう」と大勢の大人が向かったので、母は妹をおんぶして一緒について走ったのだ。
逃げる途中で横の本町川に電柱が焼け落ち、その水の中に人らしき姿が見えたのを子供心に鮮明に覚えているという。
なかなか歩かない3歳の妹を背負い、一生懸命歩いたという母。ちゃんと背負えない様子をみて「誰かが手助けして、妹を負わせてくれたのかもしれない」と母は回想する。
火が落ち着き、焼け野原になった家に戻ったが祖母はそこには居なかった。すると、隣組の方が祖母の居場所を教えてくれ、もう少しで孤児になるところを再会させてもらったという。
爆弾の音や焼夷弾の音を聞いてたので、母と祖母は終戦後も「お昼の花火でも恐い!」と逃げ回ったそうだ。
祖父は、もともと胃腸が弱く、スマトラでマラリアに罹って戦病死した。
「他人にも優しく、周りから慕われていたと」という手紙が遺品(上の家族の写真もその一つ)に添えられ、帰ってきた。「甘いものが大好きで、優しい優しいお父さんだった」と母は思い起こす。
母はいま、80歳。背負った母の妹、つまり私の叔母も健在だ。「二度と戦争だけはやめてほしい、子どもや孫の幸せのために」と母はLINEでのやりとりの最後に付け加えた。
*追加
このブログを読んだ叔母からLINEが送られた。「3月の空襲で人生が変わるから恐ろしい。生きのびたので 今 貴方達がいるのですね」と記されている。
「終戦記念日」は戦争が終わったという歴史的な記念の日のことだろうか。あるいは、戦争を体験した、戦争で亡くなった人々を悼むための日のことだろうか。
二度と、戦争を行ってはいけないという教訓はとても大切だ。
同時に、あの時代を生き抜いた人たちが命を繋いだ引からこそ、私たちの「今」があるということも書きとめたい。