平城宮跡のなかを電車が走る理由
奈良体験、最初のクライマックスなのだが。
大阪、難波駅から奈良に向かう近鉄奈良線の電車が大和西大寺駅を出てしばらくすると、車窓に壮大な歴史パノラマが広がる。
まず、右手に艶やかな朱塗りの朱雀門、そして左手には近年整備された平城宮跡と荘厳な大極殿が現れる。視界を邪魔する障害物はなく、復元された建築物の他には遺構と緑の空間が広がる。
奈良を訪れる人はまずここで一つ目のクライマックスを体験することになる。
同時に、脳裏をかすめるのは
「こんな貴重な場所を横切っていいのだろうか?」
というかすかな罪悪感。それを感じるのは私だけではないだろう。
忘れ去られ、埋没していた平城宮
都が長岡京へ移った後、平安京に都が移り、歴史の舞台から姿を消した平城京はその後、土中に埋没していく。
平城京の研究が行われたのは江戸の頃だったという。
明治の終わり頃にようやく、関野貞(せきの ただし)という建築史学者が大極殿の跡を確認し、奈良時代の都の姿が次第に明らかに。
その知らせを新聞で知った、奈良の一市民である棚田嘉十郎が立ち上がり、大極殿跡の保存に尽力を注ぐことになる。
1200年ぶりに姿を見せた平城京だが
そして、1910年には平城京大極殿跡にて平城京遷都千二百年祭と建卑地地鎮祭が棚田嘉十郎(たなだ かじゅうろう)を中心に行われた。そうなると、平城宮跡を電車が横切るなどもっての他!と糾弾されるところだが、近鉄の前身となる大阪電気軌道が線路の敷設のために用地買収を行ったのは、その4年前のことだった。
大極殿を忖度する形で弧を描いて開通
当時は、宮跡保存のための規制がなかったのだ。
よって、近鉄奈良線の線路は平城京跡を横切るかたちで1914年に開通する。
ただ、当初は大和西大寺から東へ直進する予定だったが、平城京保存を背景にした事情から、大極殿をよけるようにルートを変更することとなった。
結果的に、平城京の敷地をゆったりと弧を描いて走る状況はより情緒的な様相となった。
世界遺産平城宮跡を考える―考古学・歴史学・地質学・環境論・交通論から (歴史遺産 (3))
- 作者: 直木孝次郎,鈴木重治
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