Kodai_Note

耳を澄ますように古代を感じる試み。

矢野顕子の『在広東少年』と江戸時代の僧侶・木喰の関係

矢野顕子の人気曲でYMOの世界ツアーでも披露された『在広東少年』という歌があった。アップテンポのハードでポップな曲だ。謎めいたイントロと開放的サビ、それをつなぐ印象的な歌詞はなかなかシビれる。

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「黒色い瞳の中に赤い花が咲いて。黒い瞳の中に……」という抽象的な言葉が並び、サビの部分はこんな印象的な歌詞が歌われる。


「おまえはほほえむ わたしにむかってほほえむ……」。

お前とは誰なのか?黒い瞳の持ち主か?それは広東に在る中国の少年のことなのか?内省的でありながらインパクトのある曲は矢野顕子のファンでなくても、印象に残っただろう。

 

在広東少年

在広東少年

 

 先日、NHK新日曜美術館をみていると、「微笑(ほほえ)む仏~柳宗悦が見いだした木喰仏~」と題し、独特の笑みを湛えた仏像を彫った江戸時代後期の僧侶、木喰をとりあげていた。
木喰仏を世に広めた民芸運動創始者柳宗悦の眼を通して木喰仏の魅力を紹介するという内容だった。


“微笑仏”と呼ばれる独特の笑みを湛(たた)え、素朴で温かみのある仏像を彫った江戸時代後期の僧侶、木喰(1718~1810)。全国各地を遊行し1千体以上の仏像を彫ったという。


生涯に約12万体の仏像を彫ったといわれている江戸時代前期の修験僧・仏師・歌人円空のことは知っていたが、木喰のことは初めて知った。

ノミ痕を残した、素朴でいくぶん(いや、かなり)大味な仕上がりの円空に比べ、表面を滑らかに仕上げた木喰の仏像は完成度が高く、柔和な微笑みが印象的だった。
そんな番組の中でこんな言葉が紹介されていた。木喰自身か、あるいは柳宗悦の言葉だ。

「あなたは微笑む。合唱し。 私に向かって微笑み、また微笑む。〜時として腹

立たしき怒りに心を曇らす時、私はあなたの前にたたずむ。あなたの笑顔は思わず私の心を緩めてくれる。私の心も微笑する」
確か、木喰の言葉だったと記憶している。
「あなたは微笑む。合唱し。 私に向かって微笑み〜」。先の『在広東少年』の歌詞ととてもよく似ている。

 
矢野顕子のことだから、パクるというより、木喰の言葉をインスピレーションに生まれたものなのか。あるいは、偶然の一致か。

広東の少年の表情と江戸時代の僧侶によって掘られた仏像の笑顔がオーバーラップした。

 

木喰上人 (講談社文芸文庫)

木喰上人 (講談社文芸文庫)

 

 

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天平時代へのタイムマシン、『正倉院展』 この秋も開催

2018年度70回目となる『正倉院展』。10月27日から。

奈良の秋の風物詩というべき『正倉院展』が10月27日から17日間にわたって行われる。この季節になると、私も正倉院展モードにスイッチがはいり、皮膚が泡立つ感覚を覚えはじめる。私の審美眼など、たいしたことはないが、古代の人々の技巧や当時の皇族、つまり聖武天皇光明皇后が過ごしたひとときに触れることができると思うと、皮膚が泡立つのだ。私にとって正倉院展とは古代へのタイムマシンのような存在である。

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東大寺 正倉院 北(正面に向かって右)から順に北倉、中倉、南倉

正倉院は北倉、中倉、南倉の三倉に仕切られているが、今年は北倉(ほくそう)10件、中倉(ちゅうそう)16件、南倉(なんそう)27件、聖語蔵(しょうごぞう)3件の、合わせて56件の宝物が出陳される。

琥珀の花心と螺鈿の花弁が魅せる宝相華文が美しい『平螺鈿八角鏡』

正倉院展では毎年、目玉となる宝物が宣伝用のビジュアルとして起用される。70回目となる本展では『平螺鈿八角鏡(へい ら でん はい の はっかく きょう)』がそれとなる。これは10年ぶりの展示となる宝物で、聖武天皇の遺愛の鏡とされ、琥珀の花心と螺鈿の花弁が魅せる宝相華文(ほうそうげもん)を特長とする。

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螺鈿かざりの鏡『平螺鈿八角鏡』

ディテールをみると、八角形の鏡の鈕(中心のつまみ部分)から全方向へ、宝相華文が脈々と広がり、装飾を施した古代の職人の卓越した技に目を奪われる。宝相華文は螺鈿(貝殻の真珠光を放つ部分を磨り平らにして細かく切り、文様の形に漆器や木地にはめこんで装飾する技法)で表しており、その花心には赤い琥珀を配置している。

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絵柄の地の部分には白、淡青、緑のトルコ石ラピスラズリの破片が散りばめられている

文様は螺鈿の界線で内外が二分され、内側は鈕を軸に8枚の葉が旋回し、周囲に2種の唐花文を4個ずつ配置。また、外区にも唐花文様と文様が4個ずつ配置されている。目をこらしてみると、ひしめく螺鈿の文様のなかに一対の尾長鳥がそれぞれの唐花を囲んでいるのが見える。森の中で鳥の影をみつけたよう、なんともいえない気持ちになるのは私だけか?

ちなみに宝相華文とは仏教系の文様の一種。宝相とはバラ科に属する植物の中国名を指し、これを文様としたもの、あるいは蓮華文の変化したもの、アオイ科のブッソウゲを文様化したもの、あるいは想像上の花の文様とも言われている。

 古代の職人達による華麗な工芸品を展示。空いている曜日は

『平螺鈿八角鏡第7号』のほか約20年ぶりの出陳となる海ガメの甲羅を用いた『玳瑁螺鈿八角箱(たい まい ら でん はっ かく ばこ)』、奈良三彩の技法で焼かれた珍しい陶製鼓(つづみ)の胴、奈良三彩の鼓の胴『磁鼓(じ こ)』などが展示される。

「第70回 正倉院展」開催概要

会期:平成30年10月27日(土)~11月12日(月) 全17日
会場:奈良国立博物館 東新館・西新館
休館日:会期中無休
開館時間:午前9時~午後6時 
※金曜日、土曜日、日曜日、祝日は午後8時まで 
※入館は閉館の30分前まで
当日 前売り・団体 オータムレイト
一般 1,100円 1,000円 800円
高校生
大学生 700円 600円 500円
小学生
中学生 400円 300円 200円

休日は長蛇の列となるので、できれば平日、とくに水曜、木曜日のお昼時や夕方頃、さらには雨の日などが来場者も少ないとのこと。ゆっくりと鑑賞するなら、そうした日をターゲットに足を運んでみるのもいい。

 

正倉院美術館 ザ・ベストコレクション

正倉院美術館 ザ・ベストコレクション

 
よみがえる天平文様

よみがえる天平文様

『よみがえる天平文様』は正倉院に収められた宝物に表されている文様をコンピュータで再現させたビジュアル集。私は本書の解説制作に携わり、天平の文様について種々勉強させて頂いた。

よろしければ、予習のための一冊としてどうぞ。

 

母から聞いた、大阪空襲 (1945年3月13日)

終戦記念日(8月15日)が近づいてきたので、身近な戦争経験者、母に当時のことをLINEで聞き出し、書きとめた。

今年、父は83歳、母は80歳。有り難いことに両親とも健在で、東大阪市中石切で静かに暮らしている。大阪に大規模な空襲が行われたのは、今から73年前、1945年3月13日。

大阪空襲 (1945年3月13日)

大阪市を中心とする地域への戦略爆撃ないし無差別爆撃。13日の深夜から翌日未明にかけて行われ、一般市民 10,000人以上が死亡したと言われている。アメリカ軍の照準点は、北区扇町西区阿波座港区市岡元町、浪速区塩草で、都心部を取り囲む住宅密集地を標的にしており、夜間低空爆撃として約2,000mの低空からの一般家屋をねらった夜間爆撃だった。山を挟んだ奈良県や亀岡盆地側では、火炎が山の向こうに夕焼けのように見えたという。大阪大空襲 - Wikipedia より。

 

当時、母は8歳、集英小学校という現在の北浜駅から東へ3分ほど歩いた場所に校舎がある小学校に通う1年生だった。 

母の両親、つまり私の祖父母は、大阪市内、本町界隈で「栗山」という食堂を営み、店舗の上で四姉妹とともに、何不自由なく楽しく暮らしていた。

しかし、戦況が厳しくなると、母の父、私の祖父は戦地スマトラに出征した。

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スマトラへ向かった祖父の遺品だった家族の写真。前列右が母、左が叔母、後列の中心が祖母。両隣の母の姉は亡くなった。

祖母は食堂で、夫を兵隊にとられるなか、苦労しながら4人の娘を育てていた。そんな祖母が爆撃にあったのは33歳のとき。B29の焼夷弾が上記の通り、祖母や母が住む町に降り注がれた。

焼夷弾はゼリー状の油で建造物を焼き尽くす恐ろしい兵器だ。暮らしの土台となっていた、食堂と家をみるみるうちに焼きつくしてしまった。

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空襲後の大阪市街 左端は南海難波駅、右手に松坂屋大阪店、中央に大阪歌舞伎座wikiより

祖母は近所の火消しの手伝いにでかけねばならず、姉2人は疎開していた。残された母と3歳の妹が居た場所にも火が回ってきたのか、2人で中之島に向かったという。

中之島なら、広い空間のあるから安全だろう」と大勢の大人が向かったので、母は妹をおんぶして一緒について走ったのだ。

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B-29が274機来襲、爆撃は約3時間半続いた。wikiより

逃げる途中で横の本町川に電柱が焼け落ち、その水の中に人らしき姿が見えたのを子供心に鮮明に覚えているという。


なかなか歩かない3歳の妹を背負い、一生懸命歩いたという母。ちゃんと背負えない様子をみて「誰かが手助けして、妹を負わせてくれたのかもしれない」と母は回想する。

火が落ち着き、焼け野原になった家に戻ったが祖母はそこには居なかった。すると、隣組の方が祖母の居場所を教えてくれ、もう少しで孤児になるところを再会させてもらったという。


爆弾の音や焼夷弾の音を聞いてたので、母と祖母は終戦後も「お昼の花火でも恐い!」と逃げ回ったそうだ。

 祖父は、もともと胃腸が弱く、スマトラマラリアに罹って戦病死した。

「他人にも優しく、周りから慕われていたと」という手紙が遺品(上の家族の写真もその一つ)に添えられ、帰ってきた。「甘いものが大好きで、優しい優しいお父さんだった」と母は思い起こす。


母はいま、80歳。背負った母の妹、つまり私の叔母も健在だ。「二度と戦争だけはやめてほしい、子どもや孫の幸せのために」と母はLINEでのやりとりの最後に付け加えた。

*追加

このブログを読んだ叔母からLINEが送られた。「3月の空襲で人生が変わるから恐ろしい。生きのびたので 今 貴方達がいるのですね」と記されている。

 

終戦記念日」は戦争が終わったという歴史的な記念の日のことだろうか。あるいは、戦争を体験した、戦争で亡くなった人々を悼むための日のことだろうか。

二度と、戦争を行ってはいけないという教訓はとても大切だ。

同時に、あの時代を生き抜いた人たちが命を繋いだ引からこそ、私たちの「今」があるということも書きとめたい。