Kodai_Note

耳を澄ますように古代を感じる試み。

東大寺盧舎那仏像の造立で知られる行基が整備した有名な池とは?

行基といえば、一時は朝廷から弾圧をうけながらも民衆に慕われ、数々の社会事業に携わり、行基菩薩と敬われた奈良時代の僧。後に聖武天皇の帰依を受ける行基の功績といえば743年の東大寺盧舎那仏像の造立だろう。

莫大な費用を調達し、大勢の人夫をまとめて、この公共事業を成し遂げるのは行基以外に考えられないと聖武天皇が判断したとされる。その2年後に大僧正に任ぜられ行基は僧官の頂点にたつが、その偉業は土木工事にも及んでいた。

古事記』や『日本書紀』に築造記事がみられ、いまも灌漑用水池として使用されているのがここに紹介する狭山池だ。今から1400年前につくられた日本最古のダム形式のため池。この狭山池の改修に行基は携わっている。

現在の大阪狭山市堺市松原市羽曳野市大阪市等にわたる広大な範囲を潤し、南北960メートル、東西560メートルという湖なみの広さ、そして15.4メートル高の堤防、1400年前に築かれたとは思えないスケールだ。

行基は当時の最新技術を駆使し、大改修に取りかかり、総指揮を執った。さらに、池のほとりに狭山池院・尼院を建てたという。

続日本紀』には行基が弟子を率いて土木工事に携わると、多くの人びとが工事に協力したと記録がある。

ちなみに、狭山池は南海電鉄高野線大阪狭山市駅から10分程度歩いた場所にあるが、近隣には安藤忠雄氏が手がけた「大阪府立狭山池博物館」があり、高さ約15m・幅約60mにも及ぶ三角形状の巨大な地層断面が見学できる。

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大阪狭山市大字岩室にある狭山池は日本最古のダム式ため池とされる。

 

古代を通じてたどりつく私達の無意識

奈良や京都、あるいは飛鳥の地を訪ね歩き、古代について調べ、想いを巡らせていくうちに、なぜ、自分はこれらの事象に興味があるのだろいうと考えることがある。その原動力の正体を考えと、ゆかりの地を訪ね歩き、その地の古代の痕跡を感じてみようと感覚を研ぎ澄ませる。すると、稀に神秘的な心地よさ、美しさを体験することがある。

それは、例えば、法華寺の十一面観音に衝撃的な美を感た、あるいは聖林寺本堂の縁側から雷雨のなか三輪山を眺めた、春日大社につらなるささやきの小径で鹿の頭蓋骨を見つけた…。そんな、再び出会うことができないような瞬間だ。

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岡寺で出会った見事な蛙

それは、かつて、古代人も経験したと思われる瞬間だ。こうした瞬間に出会い、見聞きした知識とつながると、古代とつながったように感じられるのだ。この、古代とつながる感覚は、自然と人類の無意識、集合意識、あるいは自分自身の無意識に向かうことと同義だと私は思っている。

その感覚は歴史を学ぶ知識欲とは違って、音楽的な官能や幻の性愛のような感覚に近い。そうした場合、「仏を通じて自分を見つめる」という言葉に集約されがちだが、もう少し掘り下げ、感じて先に進み、原動力の正体に肉薄したいと考えている。

「十一面観音」にまみえる聖林寺で出会ったもう一つの美

 

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昨日、岡寺へ取材に行った際、足をのばして聖林寺を訪れた。伽藍を誇示することなく、山間の坂道、近隣の民家と木々に埋もれるように建っている。

曇り空、降りそうな湿気を感じながら、山門に繋がる階段を上った。

聖林寺白洲正子著「十一面観音巡礼」で知りながら、なかなか足を運べないでいたが、法華寺の「十一面観音菩薩」に感銘を受けてから、聖林寺のそれも確かめたいと常々思っていた。

 

拝観料を払い、本堂に上がると「子安延命地蔵菩薩」にまみえる。丈六(立像で一丈六尺)、八尺(約2.4m)の大きな石像。お顔が大きく、包み込むようなたおやかなお地蔵さま。

お堂の奥をみやると、襖が開け放たれ、飛鳥の地と周辺の山々の風景が広がる。

目当ての「十一面観音菩薩」は本堂の奥から急な階段を登った収蔵庫におられた。

法華寺の「十一面観音菩薩」は蠱惑な佇まいを見せていたが、こちらの観音様は衣裳を軽やかに纏い、すっきりと立ちすくむ神聖な気配が印象的だった。仏像というカテゴリーとは異なる、美的なエネルギーが伝わり、嬉しくなった。

収蔵庫を出ると空模様はいよいよ怪しい。本堂の縁側を歩くと先の飛鳥の地と周辺の山々の風景をのぞむ場所があり、そこに小さな座布団が並んでいる。何気なく座って景色を眺めていると、いよいよ降り始めた。

幾重か山のレイヤーが連なり、その一つは後で調べると三輪山だった。風が吹き、木々がゆれ、雨に打たれながら葉が擦れ合う音が風景とともに差し迫ってくる。山々の方々に雷の閃光が走り、轟音が後からやってくる。

「十一面観音菩薩」と「子安延命地蔵菩薩」の傍らにいる安心感から、雷と雨は祝祭感を感じさせる。胡座をかいて、座布団に根を生やし、風景に心を奪われた。

 

水と縁の深い十一面観音の感銘の後、感じる雨と風、そして雷。それは実体のない瞬間的な美しさ神秘的な体験だった。自分が求めるのは、この体験を味わうこと、そして、書きたいことはこうした「瞬間の美」だと思った。