Kodai_Note

耳を澄ますように古代を感じる試み。

古代を通じてたどりつく私達の無意識

奈良や京都、あるいは飛鳥の地を訪ね歩き、古代について調べ、想いを巡らせていくうちに、なぜ、自分はこれらの事象に興味があるのだろいうと考えることがある。その原動力の正体を考えと、ゆかりの地を訪ね歩き、その地の古代の痕跡を感じてみようと感覚を研ぎ澄ませる。すると、稀に神秘的な心地よさ、美しさを体験することがある。

それは、例えば、法華寺の十一面観音に衝撃的な美を感た、あるいは聖林寺本堂の縁側から雷雨のなか三輪山を眺めた、春日大社につらなるささやきの小径で鹿の頭蓋骨を見つけた…。そんな、再び出会うことができないような瞬間だ。

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岡寺で出会った見事な蛙

それは、かつて、古代人も経験したと思われる瞬間だ。こうした瞬間に出会い、見聞きした知識とつながると、古代とつながったように感じられるのだ。この、古代とつながる感覚は、自然と人類の無意識、集合意識、あるいは自分自身の無意識に向かうことと同義だと私は思っている。

その感覚は歴史を学ぶ知識欲とは違って、音楽的な官能や幻の性愛のような感覚に近い。そうした場合、「仏を通じて自分を見つめる」という言葉に集約されがちだが、もう少し掘り下げ、感じて先に進み、原動力の正体に肉薄したいと考えている。