Kodai_Note

耳を澄ますように古代を感じる試み。

興福寺に隣接する、東向商店街の真実とは?

東に位置する興福寺を忖度して生まれた東向き商店街?

近鉄奈良駅を地上にあがると、出迎えてくれるのが東大寺に向いて立つ行基像だ。そのかたわらには、「東向き商店街」という名の商店街が南北に延びている。商店街を南に少し歩くと東側に興福寺へつながる傾斜のある近道がある。傾斜を登りきると広がるのが広々とした興福寺の伽藍。


ちなみに、商店街をそのまま南へ下ると和風教会の幼稚園がある。そこは急な傾斜で、坂の途中は大きな段差になっている。ちなみに、東向き商店街という名前について、「ブラタモリ」では西側に興福寺に忖度し、背中を向けてお店を建てることをはばかったと紹介されていたが、じつはそれは事実ではない。

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平城京の時代、興福寺の西に率川という川が流れ、周囲は湿地帯で人が住める地形ではなかったという。人気はなく、ときおり興福寺のお坊さんにものを売る人だけが店を出す程度だったのだとか。また、先の幼稚園の段差は京都盆地奈良盆地東縁断層帯の断層崖にあたっている。商店街の東側は断層崖であることから、居住などに適さない地形だったわけだ。戦国時代の後半ごろになって、断層崖の東側に道ができ、町屋が立ちはじめた。さらに、その後、徐々に人々が住みはじめ約60年後、ようやく道路東側にも町屋が進出、居住地がひろがった。
結果的に人びとが活動するとすれば、おのずから道路東側の断層崖を避け、平坦な道路西側に限定されたということだ。そうした、道路西側と東側をめぐる人びとの町作りの流れを示すなごりが「東向き」という言葉なのだ。

 

広大な寺域を誇る興福寺

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興福寺の境内。かつては、現在の2倍以上の寺域があったという

 先の坂道を登って興福寺の境内を見渡してみよう。そこは広々とした見事な平地。その先に視線をやると春日大社御神体となる御蓋山が見える。そう、外京は山の麓に位置しているのだ。そうした場所にある地形が自然に、真っ平らになることはありえない。つまり、興福寺の建立に際して、もともとの起伏に富んだ凸凹地形を削り、埋め立て、人工的に無理矢理真っ平らにしたのだ。じつは実際に中門の地下からは、発掘調査によって平城京建設前にさかのぼる自然地形の谷の跡が出土している。

 また、谷の整地層以外の基壇は「地山削り出し」であることがわかっている。通常は盛り土の版築工法によって基壇がつくられたのだが、人工的に盛り土するよりも元の地面のほうが丈夫と考えられたのだろう。あるいは基壇を全て造成するよりも自然の地山を活用の方が工期短縮と考えたのか、ユニークな工法が採用されている。このような大規模な土木工事が行われたことからも、興福寺が非常に重要視されたことがみてとれるのだ。