Kodai_Note

耳を澄ますように古代を感じる試み。

岡寺:法力で龍を退治した奈良仏教のルーツ、義淵僧正創建の寺

観音の申し子として生をうけ

良弁や行基を育てた傑僧義淵

 明日香村の東、岡山の中腹にまみえるのが西国三十三ヶ所観音霊場*の第七番札所となる岡寺。

坂道を登り、門前町を横目に息を切らせて歩き、重要文化財に指定されている仁王門へ。

境内にはいると堂々たる風格の本堂が目をひく。

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本堂は一八〇五年(文化二年)の建てられたお堂だが、岡寺自体は古く、一千三百余年の歴史がある。

子宝に恵まれない夫婦のもとにつかわされ、観音の申し子といわれた義淵を天智天皇が引き取り、岡宮で草壁皇子と共に育てたことがはじまりだ。

仏教の指導者となった義淵に天智天皇は27歳で早世した草壁皇子の岡宮を与え、六六三年(天智天皇二年)663年に岡寺を創建した。

義淵は法相宗の祖であり、当時当代きっての傑僧であるといわれ、六九九年(文武三年)には優秀な学行が讃えられて稲一万束を賜る。

さらに七〇三年(大宝3年)には日本で初めて僧正となり、日本の仏教界を牽引した。その門下には東大寺の基を開いた良弁や行基など、奈良時代の高僧といわれる多くは皆、義淵僧正の教えを受けている。

龍蓋寺という正式名称の由来は

圧倒的な義淵の法力を示す伝説から

岡寺の正式名称は龍蓋寺だが、その名の由来としてこんな言い伝えがある。

かつて寺の近くの山には龍が住み、村人たちを苦しめていた。

義淵はその龍を法力で捕らえ、池に封じ込めて石で蓋をしてしまったという。

そんな言い伝えから龍蓋寺とされ、厄難を取除いた所から岡寺が厄除けの霊場になった理由のひとつとも言われている。

本堂前の広場東側には龍蓋池があり、義淵はそこに龍を閉じ込めたと伝えられる。

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義淵が龍を封じ込めたとされる龍蓋池

 

弘法大師が胎仏を忍ばせた

日本最大の塑像が鎮座

本尊は如意輪観音座像で東大寺盧舎那仏像。

長谷寺の十一面観音立像とならんで日本三大仏像に数えられ、重要文化財に指定され、

日本、インド、中国の三国の土を混ぜ合わせた特殊な塑像で弘法大師の作と伝えられる。

その胎内には銅造如意輪観音半伽像が納められており、これは龍蓋寺創建時の本尊であった。

 

高さは約四.六メートル、現存する塑像としては日本で最大となる。

その存在感から古来より信仰を集め、厄除け観音としても多くの参拝者を集めている。

4月中旬からは石楠花の花約三〇〇〇株が咲き、桜やさつき、秋には紅葉が鮮やかに色づき、

自然に恵まれた伽藍は非常に見応えが有る。

飛鳥の寺社のなかでもっとも四季折々の美しさが引き立つ。

飛鳥観光のクライマックスというべき古寺だ。

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奥之院には「弥勒の窟」といわれる石窟堂があり奥には弥勒菩薩座像が安置されている

 

興福寺に隣接する、東向商店街の真実とは?

東に位置する興福寺を忖度して生まれた東向き商店街?

近鉄奈良駅を地上にあがると、出迎えてくれるのが東大寺に向いて立つ行基像だ。そのかたわらには、「東向き商店街」という名の商店街が南北に延びている。商店街を南に少し歩くと東側に興福寺へつながる傾斜のある近道がある。傾斜を登りきると広がるのが広々とした興福寺の伽藍。


ちなみに、商店街をそのまま南へ下ると和風教会の幼稚園がある。そこは急な傾斜で、坂の途中は大きな段差になっている。ちなみに、東向き商店街という名前について、「ブラタモリ」では西側に興福寺に忖度し、背中を向けてお店を建てることをはばかったと紹介されていたが、じつはそれは事実ではない。

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平城京の時代、興福寺の西に率川という川が流れ、周囲は湿地帯で人が住める地形ではなかったという。人気はなく、ときおり興福寺のお坊さんにものを売る人だけが店を出す程度だったのだとか。また、先の幼稚園の段差は京都盆地奈良盆地東縁断層帯の断層崖にあたっている。商店街の東側は断層崖であることから、居住などに適さない地形だったわけだ。戦国時代の後半ごろになって、断層崖の東側に道ができ、町屋が立ちはじめた。さらに、その後、徐々に人々が住みはじめ約60年後、ようやく道路東側にも町屋が進出、居住地がひろがった。
結果的に人びとが活動するとすれば、おのずから道路東側の断層崖を避け、平坦な道路西側に限定されたということだ。そうした、道路西側と東側をめぐる人びとの町作りの流れを示すなごりが「東向き」という言葉なのだ。

 

広大な寺域を誇る興福寺

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興福寺の境内。かつては、現在の2倍以上の寺域があったという

 先の坂道を登って興福寺の境内を見渡してみよう。そこは広々とした見事な平地。その先に視線をやると春日大社御神体となる御蓋山が見える。そう、外京は山の麓に位置しているのだ。そうした場所にある地形が自然に、真っ平らになることはありえない。つまり、興福寺の建立に際して、もともとの起伏に富んだ凸凹地形を削り、埋め立て、人工的に無理矢理真っ平らにしたのだ。じつは実際に中門の地下からは、発掘調査によって平城京建設前にさかのぼる自然地形の谷の跡が出土している。

 また、谷の整地層以外の基壇は「地山削り出し」であることがわかっている。通常は盛り土の版築工法によって基壇がつくられたのだが、人工的に盛り土するよりも元の地面のほうが丈夫と考えられたのだろう。あるいは基壇を全て造成するよりも自然の地山を活用の方が工期短縮と考えたのか、ユニークな工法が採用されている。このような大規模な土木工事が行われたことからも、興福寺が非常に重要視されたことがみてとれるのだ。

大阪の都心を貫ぬく大川、堂島川、安治川は人工の水路だった

難波堀江は
どうしてつくられた?

 大阪の都心を貫いて高層ビルやホテル、高速道路を水面に映し、大川、堂島川、安治川へと名を変える。豊かな水量を湛えて流れるこの川のはじまりが、人工的に掘られた水路だったということをご存じだろうか。

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高層ビルが並ぶ、大川 堂島界隈

人工的に掘削されたこの水路は古代、「難波堀江」と呼ばれていた。じつは約6千年前の大阪平野の地形は現在と全く異なり、一面は大海原だった。上町台地だけが半島のように突き出ていたのだ。縄文時代中期には、上町台地の先端の砂州が北へ延びたことで、弥生時代には上町台地の東側が大きな湖となっていた。

 

洪水が多発水難に悩まされ

あの人物が腰を上げた

5世紀、大和朝廷が台頭した頃、上町台地の南部、住吉神社の隣接する住吉津は外交の拠点としての役目を担っていた。また、上町台地の東側には逃げ場を失った水が溢れ、平野部では洪水が多発。そこで、時の帝、仁徳天皇は溢れた水を大阪湾に逃がすために日本最初の大規模土木工事を敢行。上町台地の北側の砂州を掘削し、東西に貫通させた、それが難波堀江だ。

治水のために掘られた水路だが、渡来人の案内や内外から運ばれてきた献上品などの移送の際にも重宝した。住吉津経由ではなく、堀江を通過することで難波津、さらに、その先の大和にスムーズに運ぶことができたのだ。また、堀江の大阪湾の入り江に、江口という船着き場があった。ここは港としてではなく、難波津に来航する外交使節を迎えるための場と伝えられる。

 

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難波堀江は6世紀頃に掘られたとされるが、結果的にこの水路は淀川(旧淀川)の本流となったという。さらに、明治期の淀川改修によって、淀川は流れを変え、難波堀江の水路は現在の大川となった。