Kodai_Note

耳を澄ますように古代を感じる試み。

大阪の都心を貫ぬく大川、堂島川、安治川は人工の水路だった

難波堀江は
どうしてつくられた?

 大阪の都心を貫いて高層ビルやホテル、高速道路を水面に映し、大川、堂島川、安治川へと名を変える。豊かな水量を湛えて流れるこの川のはじまりが、人工的に掘られた水路だったということをご存じだろうか。

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高層ビルが並ぶ、大川 堂島界隈

人工的に掘削されたこの水路は古代、「難波堀江」と呼ばれていた。じつは約6千年前の大阪平野の地形は現在と全く異なり、一面は大海原だった。上町台地だけが半島のように突き出ていたのだ。縄文時代中期には、上町台地の先端の砂州が北へ延びたことで、弥生時代には上町台地の東側が大きな湖となっていた。

 

洪水が多発水難に悩まされ

あの人物が腰を上げた

5世紀、大和朝廷が台頭した頃、上町台地の南部、住吉神社の隣接する住吉津は外交の拠点としての役目を担っていた。また、上町台地の東側には逃げ場を失った水が溢れ、平野部では洪水が多発。そこで、時の帝、仁徳天皇は溢れた水を大阪湾に逃がすために日本最初の大規模土木工事を敢行。上町台地の北側の砂州を掘削し、東西に貫通させた、それが難波堀江だ。

治水のために掘られた水路だが、渡来人の案内や内外から運ばれてきた献上品などの移送の際にも重宝した。住吉津経由ではなく、堀江を通過することで難波津、さらに、その先の大和にスムーズに運ぶことができたのだ。また、堀江の大阪湾の入り江に、江口という船着き場があった。ここは港としてではなく、難波津に来航する外交使節を迎えるための場と伝えられる。

 

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難波堀江は6世紀頃に掘られたとされるが、結果的にこの水路は淀川(旧淀川)の本流となったという。さらに、明治期の淀川改修によって、淀川は流れを変え、難波堀江の水路は現在の大川となった。