パワースポットとして知られる天川村で「能」が栄えた理由
芸能の神様として多くの芸術家やタレントの崇敬を得、1989年に社殿の建て替えの際に行われた神事、正遷宮大祭には長渕剛やYMOの細野晴臣、環境音楽の大家 ブライアン・イーノを召喚しての奉納を執り行った天河大弁辨天社。
当時は、アーティストやニューエイジ系のかなりハイな人たちやが集っていたが、現在は少し落ち着きを取り戻した様子。それでも、パワースポットとしての人気は相変わらずで、スピ系の人々も多く訪れている様子だ。
毎年7月の大祭になると能舞台では観世流の著名な楽師による能が奉納される。また、同社には能面31面、能装束30点と小道具、能楽謡本関係文書などの遺産が残され、能とこの地の並々ならぬつながりを示している。
その境内には杉木立の小山があり、その上には本殿に向き合って能舞台が設えてある。奥深い山間の道のりは今でも遠いが、なにゆえ同社に能舞台が設えられ、著名な能楽師の崇敬や能に関する遺産を集めたのか?
天河神社のある天川村は、2004年に世界遺産として認定された紀伊山地の三つの霊場、高野、吉野、 熊野の中心にある。そこは、自然信仰の精神を育む修験道の聖地。この地に栄えた神楽に触れることで神と一体化し、霊験にあやかることができるとされていた。
室町時代、能の大成者世阿弥は寵愛を受けていた足利義満から義教の時代になると、嫡男元雅とともに能を演じることを禁じられることとなった。父子はやむなく京を離れることに。不遇の中でも精進を続けた元雅は、神楽が盛んであった天河神社を訪れ、苦境を脱することを心に期し、霊験にあやかろうと「唐船」という能を奉納、能面を寄進する。
元雅は30歳代で非業の死を遂げたが、その魂が能舞台に宿ったのか、天河神社は能の聖地としても位置付けられ、多くの能楽師が演じるようになったのだ。
天河(てんかわ)―スーパー・サイキック・スポット (Meditation Book)
- 作者: 柿坂神酒之祐
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「こもりくの初瀬」宿命的な長谷寺の地形と信仰
本尊十一面観音像をはじめ、約千点にも及ぶ文化財を所蔵する長谷寺。四季折々の花が咲き、なかでもぼたんは約150種約7,000株が咲きそろうことから、「花の御寺」と称されている。
車で向かうなら、三輪山の裾から初瀬川を遡って車で10分強。ほどなく、長谷寺の参道にさしかかり、門前町らしいお店や古い町家などが並ぶ。
ちなみに、長谷寺の一帯は古来「泊瀬」と呼ばれている。その名の由来は三輪山から長谷寺に向かう国道165号線の途中、朝倉小学校正門近隣に佇む柿本人麿による万葉歌碑にも見てとれる。
「こもりくの泊瀬の山の山の際に いさよふ雲は妹にかもあらむ」
「泊瀬の山々のあたりにいつまでも去りやらずにいる雲は、あれは妹のかわった姿(火葬の煙)でもあろうか」という意味の挽歌だ。古代の泊瀬が葬送の地であったことを示している。
さらに、注目すべきはこの歌にあるように、泊瀬(はつせ)という地名が他の歌にも出てくるが、それらの多くに「こもりく」というの枕詞が使われているということ。
「こもりく」は「隠国」と記し、三輪山との位置関係からみて神が隠もる国を示しているといわれている。泊瀬は長谷寺近隣を流れる大和川の上流となる初瀨川である。急流が流れる渓谷がもたらす地形から「初瀬流れ」と呼ばれ、清流が人々を潤し、時には荒れ、深刻な水害の元となった。そうした畏れから神が宿る聖地として位置付けられたのかもしれない。
長谷寺のご本尊である十一面観音像は10メートル以上もあることで知られるが、人々を潤しながらも、同時に壊滅的な水害で人々を苦しめる圧倒的な力を神として捉えたアニミズムのスケールがこの大きさの由来なのかしれない。
Photo by Yuuko-san
ちなみに、現在、2018年5月31日まで16メートルもの大観音大画軸が公開されている。
1495年に罹災した本尊十一面観世音菩薩を復興再建するため設計図として作られたと伝えられ、長谷寺本尊十一面観世音菩薩とほぼ原寸大に描かれたもの。
大観音大画軸は大きいため、建物に入らず、上記のように斜めに安置されている。Photo by Yuuko-san
ちなみに、ぼたんまつりは4月14日~5月6日、丁度いまが咲きごろかも。
爽やかなこの時期に足を運んでみてはどうだろう?
[近隣情報]
*茶房長谷路 駅から長谷寺への門前町にある「茶房長谷路」は、座敷から中庭の日本庭園を鑑賞できる趣あるお店。蕎麦や抹茶、甘味などが味わえる。写真右は抹茶(菓子/水のしづく付き) 500円。
https://tabelog.com/nara/A2904/A290402/29000320/dtlmenu/photo/
建造物は正確には「山田酒店(茶房長谷路)主屋」とする。文化8年の長谷川の氾濫後に建造された。木造つし2階建,切妻造,桟瓦葺。通りに面して店舗を構え,北側に食堂,茶の間,東側に中庭に面した和室を2室とる。江戸末建立の酒店として重厚な店構えを持つ。
All photo by Yuuko-san
春日大社の御本殿の段差が整備できない理由
今年、2018年には創建1250年を迎える春日大社。東大寺と並んで奈良の観光地として最も多くの人たちが訪れるが、その魅力の一つが境内が原生林に隣接しているということだ。たしか、養老孟司ものたまっていたが、孤島や山間の奥深くでならいざしも、奈良の市街地からほどない地域にこれほどの原生林がそのままの姿で残されていることは非常に奇特なこと。
春日大社は、平城遷都後、興福寺と同様、藤原氏により創建され、氏神として栄えたと伝えられる。鹿を神使とし、山原生林の中に鎮座する。創建以来、朱の柱、白い壁、檜皮屋根の本殿・社殿が千古の森の中にその秀麗な姿をとどめている。
注目すべきは春日大社が本殿東側の御蓋山(297メートル)を神体山としているということ。みかさやまといえば、三つのかさねのある若草山を思い出す人が多いだろうが、御蓋山と若草山は別の山である。
つまり、御蓋山を御神体としているが、その御祭神は春日神という四柱の神だ。境内の中門の奥には、一列に4つの御本殿が並んで建てられている。御本殿は屋根は曲線を描いて反り、正面にだけ大きな庇を付けた「春日造」と呼ばれる建築様式だ。
御本殿は位置を変えず、20年に一度、社殿の一部または造り替え、御修繕を行う「式年造替」が行われている。
その第一殿には武甕槌命(タケ ミカ ヅチ ノ ミコト)、第二殿に経津主命(フ ツ ヌシ ノ ミコト)、第三殿に天児屋根命(アメ ノ コ ヤ ネ ノ ミコト、第四殿に比売神(ヒ メ ガミ)が祀られている。注目すべきは国宝である春日大社のご本殿の並び方だ。同じ大きさ、同じ様式の社殿が第一殿から第四殿まで、御蓋山の中腹のにある傾斜地に並んで建てられている。そして、それぞれの社殿には微妙に段差があり、社殿の高さも向かって右から順番に低くなっている。
「式年造替」によって何度も造り替えられていはいるが、段差は一度も整地されることなく、創建当時のままの状態になっているという。その理由は、御蓋山が神体山ということと関係している。
国宝となる本殿一帯は、地面を含めて神聖なる地域だ。人間の手を加えるべきできないと古来から考えられていたのだ。
自然が象る地形に逆らわない、傾斜もそのまま本殿を建てる。そこに、自然と神に対する無言のメッセージがこめられていたのだ。
ちなみに、現在、奈良国立博物館では「国宝 春日大社のすべて」と題する大規模な展示が行われている。朝廷から庶民に至るまで広く信仰を集めた春日大社の歴史をたどり、多くの社宝や関連作品により、その全容を展示するという。
改めて、春日神社に撮影に行こうと思うが、その際に立ち寄ってみたいと思う。