Kodai_Note

耳を澄ますように古代を感じる試み。

春日山麓の尾根を5m削り、築かれた東大寺大仏殿

東大寺はいうまでもなく、大仏殿が鎮座する奈良仏教の中心地だ。

広大な境内の石畳の参道から大仏殿を眺め、そこに青い空が広がると、

 まるでタイムトリップしたような気分となる。

あおによし ならのみやこは さくはなの

におうがごとく いまさかりなり

                小野老 万葉集巻三

[訳 青丹も美しい奈良の都は、咲きさかる花のかがやくように、今盛りである]

天平勝宝4年(752年)の開眼供養会には2万人もの僧侶が集まり、伎楽や舞楽が奉納され、盛大な法会が行われた。

圧倒的な広さを誇る境内だが、かつて、そこにはゆるやかな春日山麓の尾根が延びていたという。

大仏殿は大仏を鋳造し、完成して後、大仏台座高106.75(標高)メートルを残し、大胆にも約5メートルを削り取って102メートルの平坦地にならしたというから驚かかされる。

ちなみに、現在の大仏殿は、横幅57.5m、奥行き50.5m、高さ49.1mとなっているが、創建当時は、横幅85.8m、奥行き50.3m、高さ37.5mと、現在よりも横幅の広いお堂であったと伝えられている。

幾度もの戦火に崩れ、現在の姿に落ち着いたのだ。

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同じ東大寺でも二月堂は地形を活かして築かれたのに対し、大仏殿は仏教国家としての圧倒的な力を示す人工的なお堂だった。

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また、境内の北西に転害門という門がある。不思議なのは、そこには、なんと神道のしめ縄が張られているのだ。

これは、盧舎那仏坐像を建立する際、その守護神として大分県の宇佐八幡宮から分霊を迎え、手向山八幡宮に鎮座したことに由来する。この門から神輿が東大寺に入るさいにしめ縄が張られたという。

 

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三間一戸、8本の柱で支える八脚門八脚門で、表側には太いしめ縄が張られ、神仏習合の名残を見せる。東大寺創建当初の遺構として珍しく、堂々たる風格で知られる密やかな名所だ。

大阪に存在した、巨大な「河内湖」とは?

いまや、大阪湾といえば港区、大正区、住吉区、此花区や西淀川区の向こう側、であるが、大阪市の大部分は海の底にあった。


約2万年前、氷河期の終わりの頃は海面が低く、大阪湾や瀬戸内海は海のない干上がった状態だった。気温がじょじょに上昇し、氷が溶けて海面が高くなり、5500年前ごろになると大阪平野のあたりに海ができたのだ。

前回の投稿<淀川河口、西淀川区の地名の多くに「島」の字がつくわけ - Kodai-Note

と通じるトピックスだが、興味深く、そして重要なのでここで触れておく。

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海には上町台地だけが半島のように浮かび、外海と河内港とを区切っていた。ちょうど河内港の中心にあたる大阪市鶴見区ではナガスクジラの化石が発見されており、付近がかつては大海原で、潮を吹き上げるナガスクジラの姿が見られたことを証明している。

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[約7000~6000年前]海水面が現在の水位より1~2m高く上昇、東は生駒山麓、南は八尾、北は高槻付近まで河内平野を覆った水面が広がっていた。 偏西風の影響のもとに沿岸州が発達し、現在の松屋町筋付近には砂浜が続いていた。

2000年前には、再び気温が下がって海面が低くなり、河内湾には海水が入らなくなる。そして、大阪湾から吹き寄く西風により、上町台地の北側の砂州が発達。淀川や大和川から流れた水は千里丘陵や神崎川あたりにあった河内湾の入り江から西に流れ出た。土砂は堆積し続け、河内湾に大阪平野ができていった。

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[約1800~1600年前]天満長柄の砂州が北へ延び、自然の堤防となって河内平野(河内潟)への海水の流入をさえぎり、じょじょに河内潟は淡水湖となる。

こうして、河内湾は河内湖となり、1800年〜1500年前には淡水の湖となる。中央区、西淀川区、此花区、東成区、生野区、東大阪、八尾市までも河内湖の中にあった。
さらに、大和川は洪水を起こし、そのたびに流れを変え、それを繰り返すことで大阪平野が作られ、河内湖は少しづつ小さくなった。

 

河内湖に漁猟や水稲耕作によって暮らしていた人々が住みはじめるのは縄文時代から弥生時代にかけての頃。森ノ宮遺跡や瓜破遺跡などがその住居跡として発見されている。

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[5世紀以降]仁徳天皇による治水事業により、河内湖の水域が減少。また、流入している大和川等が河口に三角州を生成。湿地・草原あるいは堤防敷となり、じょじょに河内低地の陸地化が進んだ。

仁徳天皇が上町台地の上に難波高津宮を置く4世紀後期もしくは5世紀初期の頃には、河内湖はさらに小さくなり、草香江(くさかえ)と呼ばれていた。そして、じょじょに大阪平野が姿を見せるが、水の逃げ場のなかった草香江の水害は甚大だった。そこで、水運の改善のためもあって、仁徳天皇が排水路として掘削したのが難波の堀江、現在でいう大川。そう、中之島から安治川へと流れるこの川は、人工の川だったのだ。仁徳天皇が河内にたまった湖の栓を抜くような形で掘削に取り組んだというわけだ。

 

こうして河内湖の干拓・開発が急速に進み、湖は湿地へと変わり縮小。さらに、近代になって埋立が進み、いまの大阪の地形となった。いまや都心として栄える大阪、であるが、かつては巨大な「河内湖」、さらには、ナガスクジラが遊泳する大海原だったのだ。

 

【資料/出典】大阪ブランド資源報告書(大阪ブランドコミッティ、2006年)【参考文献】「水都」大阪物語(2011年)

「水都」大阪物語 〔再生への歴史文化的考察〕

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凹凸を楽しむ 大阪「高低差」地形散歩

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淀川河口、西淀川区の地名の多くに「島」の字がつくわけ

「中島」「姫島」「御幣島」「歌島」「竹島」「出来島」「百島」「西島」……。神崎川と淀川に挟まれ、大阪湾に顔をのぞかせる大阪市の南西の角のエリア、西淀川区には島を冠する地名が多い。

淀川の河口付近に位置する地が「〜島」と名付けられた理由、それは古代、これらの地は実際に島として存在していたことに由来する。さらに、島々はあわせて「難波八十島」と呼ばれていたのだ。

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日本列島が形成されて間もない太古の頃のこと。かつて、大阪市の多くは海の底であった。西は六甲山麓から東は生駒山麓まで大阪湾が深く入りこみ、上町台地だけが半島のように浮かんでいたのだ。そして、大阪市内には鯨が遊泳する大海原が広がっていたのだ。

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そこに、淀川、大和川武庫川などの川が運んできた土砂が、河口に堆積。それが洲となり、「難波八十島」となった。現在は町名変更等によりなくなったが、先の島に加え、「酉島」「外島」「南島」「加島」「蒲島」という島じまも辺りに存在。「難波八十島」として数えられたという。


これら淀川流域の島々、「難波八十島」では古代、天皇が即位した際に「八十島祭」という神事が行われた。「難波八十島」を伊弉諾伊弉冉の二神が生んだ日本の国土、大八洲に見立て、その島々の神霊をまねき、天皇に遷すという儀礼だ。この時、女官を「八十島祭使」として派遣し、神琴の音に合わせて天皇の御衣のはこを開き振り動かしたという。


この儀礼を経て天皇は正統な継承者となったとされる。神代の時代から続いていたという幻の神事「八十島祭」。この神事は天皇の即位儀礼の一環として平安時代から鎌倉時代の頃まで続けられていたという。淀川河口の島々は、その祭礼場として尊ばれた、聖なる空間だったのだ。

 

大阪アースダイバー

大阪アースダイバー

 

 「八十島祭」ついては、中沢新一著『大阪アースダイバー』でも触れられている。

 

 

 上記のトピックスは私が執筆陣として参加した下記書籍のネタが元になっている。他にも、興味深いトピックスが気軽に読めるのでよろしければご一読のほどを。

眠れなくなるほど 日本の地形がおもしろくなる本

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