Kodai_Note

耳を澄ますように古代を感じる試み。

鴨川から松原通、鳥辺野方面への道はあの世へのアクセスポイント

松原通に漂う並々ならぬ気配の深層

賑やかな四条河原町を南下し、鴨川を渡った松原通は清水寺に至る、細く古い道だ。

はんなりと雅やかな雰囲気が多い京都の町のなかで、この通りは独特な雰囲気を漂わせている。

民家がひしめく道すがら、お地蔵さんや寺院に差し掛かり、さらに「幽霊飴」という奇妙な飴を売る店が姿を見せる。さらに、この一帯の住所は「轆轤(ろくろ)町」という。

ぱっと見、「髑髏(どくろ)町」に見間違うが、実のところ、この地は、江戸時代までそう呼ばれていたのだ。

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かつて、この道の先にある清水寺の裏手、南側の一帯は墓地であり、鳥部野と呼ばれる京都の三大風葬地の1つだった。

平安時代、丁重に葬られる遺体は鳥辺野に運ばれたが、多くは鳥部野まで運ばれず、鴨川に捨て置かれたという。

そして、雨が降ってて鴨川の水が溢れると、あたりに人骨が散らばったことから、髑髏町と呼ばれていたのだ。

しかし、江戸になると、この名があまりにも不吉であることから轆轤町と改称されたのだ。

 

ちなみに、一帯には六波羅蜜寺という寺院がある。これは951年空也が十一面観音像を刻み、建立したもの。

疫病が流行したこの頃、空也は死体が山積みとなった京都を念仏を唱え歩き、この地に散らばった骨を拾っては供養したという。

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この地が埋葬地となった理由は、付近の地形が扇状地であったこととと関係している。水を安定して確保することが難しく、農地としも不毛であり、墓地くらいしか使い道がなかったのだった。

そうしたことから、鳥辺野には遺体が運び込まれるようになり、北の蓮台野、西の化野とならぶ京都三大墳墓地として位置付けられるようになったのだ。

風葬された死体が朽ちていく「九想図絵」で知られる西福寺

西福寺は3つの仏堂でなる浄土宗の小さな寺院だが、かつては6つの仏堂でなる、檀林皇后の祈願所でもあった寺院だ。

檀林皇后は平安時代の嵯峨天皇の皇后で、才色兼備の誉れ高い人物として知られていた。空海に帰依し、信仰の深い彼女は、死後、自身が朽ちていく姿を晒すことを遺言としたという。

こうして、風葬された死体が朽ちていく様子を九段階にわけて描かせた「九想図絵」がこの寺院に残されている。自らの屍が朽ちていく様子を見せることで、残された人々に死生観を伝えたかったのだろう。

 

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つまり、松原通を東へ歩き、三途の川として見立てられた鴨川を越え、鳥辺野を目指すことはあの世へ向かうことを意味していたのだ。

六波羅密寺と、隣接する西福寺、「幽霊飴」を売るみなとや幽霊子育飴本舗付近が「六道の辻」と呼ばれていることからも、古来、この地域があの世に最も近い場所だと考えられていたことがわかる。

小野篁が地獄に出入りした井戸

さらに、「六道の辻」付近にはもう一つ興味深い寺院がある。

西福寺と「幽霊飴」を売るみなとや幽霊子育飴本舗がある場所を少し登り、六道の辻の左にある六道珍皇寺。平安前期の学者・歌人・漢詩人であり、高級官僚でもあった小野篁とのゆかりがある古い寺院だ。

境内の左側には卍の字が掲げらた一角には地蔵がならび、この地に葬られた人びとを弔う地蔵堂がある。その向かい側、境内の右側に閻魔・篁堂。そこには、弘法大師、小野篁とならび、なんと閻魔王が祀られている。

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小野篁は昼は高級官僚として嵯峨天皇につかえたが、夜になるとあの世にある閻魔庁につとめていたという伝説がある。

改めて境内を見渡してみると本堂の傍らには庭が見られるのぞき穴があり、そこには「篁 冥土通いの井戸」と記されている。

のぞくと、庭の一角にひっそりと井戸が佇んでいるのをみることができた。この井戸こそが、この世からあの世の出へに通じる入り口として語り継がれてきたのだ。

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この井戸の位置する一帯が、あの世に通じる場所であると考えられた理由はほかにもある。

境内を東側へまわってみると、そこにあるのは高さ数メートルの段差壁。

これは八坂神社から続いている桃山断層の断層崖であり、東山山地の隆起に伴う東山山地西縁の逆断層だという。

平安時代の人びとは、不自然に地面がせり上がっている断層を目にし、地獄に繋がるような大地の裂け目、あの世とこの世の境目をイメージしたのかもしれない。

あの世へのアクセスポイントとして、六道珍皇寺を建て、あの世へと通じるとおぼしき井戸を作ったのだろう。