Kodai_Note

耳を澄ますように古代を感じる試み。

奈良のお土産、[柿の葉寿司]。材料の鯖はどうやって仕入れた?

柿の葉寿司といえば、近鉄沿線のコンビニ、あるいは奈良県内を車で走ると売られているのが目にとまる、奈良の風土料理だ。観光客にとってのお土産ものであり、同時に、奈良の人たちの生活に密着した日常食でもある。

そもそも、柿の葉寿司は奈良県吉野郡、そして五條市方面のお土産ものとして江戸時代の中頃に生まれたもの。酢にひたしたサバやサケの切り身を一口サイズの酢飯のうえにのせ、柿の葉で包んで押しをかけた作った寿司だ。

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柿の葉の柿は全国有数の産地である西吉野から五條にかけてとられたもの。しかし、鯖や鮭はどのやって仕入れたのか?奈良県には海に面した地域はなく、これらを穫ることはできないはずだ。

じつは、柿の葉寿司の要となる鯖を届けたのは紀州藩(和歌山)の漁師たちだった。当時、重税に苦しんでいた彼らが海産物を買ってくれる客として思いついたのが、紀州から比較的近く、吉野方面に住む裕福な人達だったのだ。そこで、猟師たちは熊野灘で捕れたサバを塩でしめて売りにいくことにしたのだ。

物流や冷蔵設備のない江戸時代、紀州から猟師が運んだ塩サバは山里に暮らす吉野の人々に大好評だった。さらに、猟師たちのアイデアか、あるいは吉野の人々が思いついたのか、この塩サバを五条、西吉野で大きく育った防腐効果がある柿の若葉で包んでできたのが柿の葉寿司だったのだ。

 

当初の柿の葉寿司は、鮒寿司のように、塩サバをごはんを桶に入れて漬け込み、発酵させて酸味をもたせたものだった。食酢ができてから、現代の押し寿司のスタイルになったという。

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柿の葉寿司は、柿の若葉が育つ夏の頃から、柿の葉が赤く色づく晩秋にかけ、夏祭りや秋祭など特別な日にごちそうとして食べるため各家庭で作られたという。さらに多くの人々が食するきっかけがった。奈良の南部、大峰山に参拝にやってくる人々だ。

保存が利いて携帯性がよいということで、街道を行く旅人に茶屋で売られるようになり、美味しさと手軽さが広がり、広く知られるようになったという。 

柿の葉すし (鯖・鮭) 15個入

柿の葉すし (鯖・鮭) 15個入

 

「七夕伝説」の発祥は、大阪の枚方市と交野市?

「七夕伝説」は織姫と牽牛の恋物語

たまには、季節に合ったものを、ということで今回は「七夕」についてのトピックス。まずは「七夕伝説」についておさらいを。

七夕伝説のヒロインは天帝の娘であり神様の着物つくりにたずさわる織女(おりひめ)。天の川のほとりで、彼女は年頃になっても恋もせず、無心に着物を織っていた。天帝はそんな織姫を不憫に思い、牽牛(けんぎゅう)という名の牛飼いを引き合わせ、結婚させる。すると、それまで真面目に働いていた織女(織姫)と牽牛(彦星)は職を忘れ、遊びほうけ、着物をつくらなくなってしまった。天帝の逆鱗に触れてしまった2人は引き裂かれ、離ればなれとなる。ただ、年に一度だけ、七月七日に「天の川」を渡って合うことだけが認められた。そして、「天の川」を渡るために「鵲(かささぎ)」という鳥が翼を広げて橋を架け、2人は「天津」という天の港で逢い引きする。

以上が「七夕伝説」のアウトラインだ。

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このロマンチックな恋物語と地理関係が合致する土地が存在する。

それは、意外なことに京都でも奈良でもなく、

大阪の北東部にある郊外、枚方市と交野市なのだ。

 

地図で交野市・枚方市周辺をみると「天野川」という川が記されている。

生駒山系を水源とし、淀川に流れ込む小さな一級河川だが、

この「天野川」には「鵲橋」や「天津橋」、そして「逢合橋」といった

「七夕伝説」にちなんだ名の橋が架かっているのだ。

 

さらに、天野川の北には機物神社がある。 

機物神社には、織姫が祀られており、なんと七夕祭りが行われているという。

ここまでくれば、交野市・枚方市周辺を七夕伝説の発祥の地とは考えていいものか?

 

「天帝」とは何者か?

ところで、「七夕伝説」には「天帝(てんてい)」と呼ばれる人物が登場する。

神や仏でもなく、帝でも、将軍でもない「天帝」とは、古代中国で、宇宙の万物を支配すると考えられた神であり、万物を創造したとされる造物主なのだという。

じつは、5~6世紀頃、この地域には、秦氏などの養蚕布織の技術に長けた渡来人の一部が定住していたのだ。

そして、機物神社は渡来人が祀る「ハタモノの社」だったといわれている。
つまり、「秦」を機織りの「機」という字で表し、機物神社として祀られたというわけだ。

そうした経緯から交野の地形が「七夕伝説」の舞台にみたてられ、広く伝えられたといわれているのだ。

鴨川から松原通、鳥辺野方面への道はあの世へのアクセスポイント

松原通に漂う並々ならぬ気配の深層

賑やかな四条河原町を南下し、鴨川を渡った松原通は清水寺に至る、細く古い道だ。

はんなりと雅やかな雰囲気が多い京都の町のなかで、この通りは独特な雰囲気を漂わせている。

民家がひしめく道すがら、お地蔵さんや寺院に差し掛かり、さらに「幽霊飴」という奇妙な飴を売る店が姿を見せる。さらに、この一帯の住所は「轆轤(ろくろ)町」という。

ぱっと見、「髑髏(どくろ)町」に見間違うが、実のところ、この地は、江戸時代までそう呼ばれていたのだ。

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かつて、この道の先にある清水寺の裏手、南側の一帯は墓地であり、鳥部野と呼ばれる京都の三大風葬地の1つだった。

平安時代、丁重に葬られる遺体は鳥辺野に運ばれたが、多くは鳥部野まで運ばれず、鴨川に捨て置かれたという。

そして、雨が降ってて鴨川の水が溢れると、あたりに人骨が散らばったことから、髑髏町と呼ばれていたのだ。

しかし、江戸になると、この名があまりにも不吉であることから轆轤町と改称されたのだ。

 

ちなみに、一帯には六波羅蜜寺という寺院がある。これは951年空也が十一面観音像を刻み、建立したもの。

疫病が流行したこの頃、空也は死体が山積みとなった京都を念仏を唱え歩き、この地に散らばった骨を拾っては供養したという。

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この地が埋葬地となった理由は、付近の地形が扇状地であったこととと関係している。水を安定して確保することが難しく、農地としも不毛であり、墓地くらいしか使い道がなかったのだった。

そうしたことから、鳥辺野には遺体が運び込まれるようになり、北の蓮台野、西の化野とならぶ京都三大墳墓地として位置付けられるようになったのだ。

風葬された死体が朽ちていく「九想図絵」で知られる西福寺

西福寺は3つの仏堂でなる浄土宗の小さな寺院だが、かつては6つの仏堂でなる、檀林皇后の祈願所でもあった寺院だ。

檀林皇后は平安時代の嵯峨天皇の皇后で、才色兼備の誉れ高い人物として知られていた。空海に帰依し、信仰の深い彼女は、死後、自身が朽ちていく姿を晒すことを遺言としたという。

こうして、風葬された死体が朽ちていく様子を九段階にわけて描かせた「九想図絵」がこの寺院に残されている。自らの屍が朽ちていく様子を見せることで、残された人々に死生観を伝えたかったのだろう。

 

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つまり、松原通を東へ歩き、三途の川として見立てられた鴨川を越え、鳥辺野を目指すことはあの世へ向かうことを意味していたのだ。

六波羅密寺と、隣接する西福寺、「幽霊飴」を売るみなとや幽霊子育飴本舗付近が「六道の辻」と呼ばれていることからも、古来、この地域があの世に最も近い場所だと考えられていたことがわかる。

小野篁が地獄に出入りした井戸

さらに、「六道の辻」付近にはもう一つ興味深い寺院がある。

西福寺と「幽霊飴」を売るみなとや幽霊子育飴本舗がある場所を少し登り、六道の辻の左にある六道珍皇寺。平安前期の学者・歌人・漢詩人であり、高級官僚でもあった小野篁とのゆかりがある古い寺院だ。

境内の左側には卍の字が掲げらた一角には地蔵がならび、この地に葬られた人びとを弔う地蔵堂がある。その向かい側、境内の右側に閻魔・篁堂。そこには、弘法大師、小野篁とならび、なんと閻魔王が祀られている。

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小野篁は昼は高級官僚として嵯峨天皇につかえたが、夜になるとあの世にある閻魔庁につとめていたという伝説がある。

改めて境内を見渡してみると本堂の傍らには庭が見られるのぞき穴があり、そこには「篁 冥土通いの井戸」と記されている。

のぞくと、庭の一角にひっそりと井戸が佇んでいるのをみることができた。この井戸こそが、この世からあの世の出へに通じる入り口として語り継がれてきたのだ。

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この井戸の位置する一帯が、あの世に通じる場所であると考えられた理由はほかにもある。

境内を東側へまわってみると、そこにあるのは高さ数メートルの段差壁。

これは八坂神社から続いている桃山断層の断層崖であり、東山山地の隆起に伴う東山山地西縁の逆断層だという。

平安時代の人びとは、不自然に地面がせり上がっている断層を目にし、地獄に繋がるような大地の裂け目、あの世とこの世の境目をイメージしたのかもしれない。

あの世へのアクセスポイントとして、六道珍皇寺を建て、あの世へと通じるとおぼしき井戸を作ったのだろう。