夕日を礼拝し、浄土を思う。四天王寺、「日想観」。
上町台地から太陽を崇拝する、日想観という信仰があった。
その日は午後5時半を過ぎたころ、夕日が西門の間から徐々に沈んでいく。居合わせる人々は境内から手を合わせ、般若心経を唱えながら西の彼方に沈みゆく夕日を眺める。
これは、聖徳太子が創建した大阪の四天王寺にて、春分・秋分の日の午後5時20分から行われる法要の場面。「日想観」と呼ばれる特別な行事だ。
「日想観」とは西方に向かって、沈む夕日を観ながら極楽浄土を想う仏教の修行のひとつ。先の夕日が沈む方向に佇む四天王寺の西門にあたる石鳥居は、古来、極楽の東門にあたると信じられてきた。そして、秋分・春分の日に石鳥居の向こうに沈む夕日を礼拝し、極楽浄土を「観想」するという。しばらく廃れていた法要だが、2001年から復興され、近年は多くの人びとが参詣に訪れている。
寺伝によると四天王寺は6世紀、聖徳太子が建立した寺院。当時、大阪は難波津と呼ばれ、上町台地にある四天王寺の門前まで海が迫っていた。上町台地周辺から西には大海原が広がっていたのだ。そして、四天王寺から眺める夕日の美しさは格別で、六甲山系と淡路島の中間の水平線に沈む夕日が眺められたといわれる。
平安時代、空海が四天王寺の夕日を見て修行を始めたことが日想観の由来となっている。浄土信仰は皇族・貴族から庶民の間にまで広まり、中世以降は、春と秋の彼岸の中日に四天王寺に参詣し、「西門」から鳥居越しに西方に向かって夕日を拝むことが庶民の間に広まっていた。四天王寺の西門は、極楽浄土の東門へ通じると信じられていた。西方にあると極楽浄土に行くため、『観無量寿経』はその方法として、最初に説かれたのが「日想観」であり、四天王寺はその修行の中心地としてにぎわった。
聖地といえば、奈良の山間、あるいは熊野方面に注意が向きがちだが、都市空間となった土地にも聖地として機能していた場所がある。そうした場所をみずから発掘していくことは意義のあることではないか。